今や、どの小学校でも出される国語の音読。けれど、この宿題、私の子ども時代にはありませんでした。これって本当に国語力に関係あるの? そんな声が聞こえてきそうです。
おっしゃる通りのハンドレッド。
子というもの、低学年の頃、毎日、音読の宿題を持ち帰ってきます。その音読を聞き親がチェックする。ただ、それだけのことなのに、いや、それだけだからこそ手ごたえもなく、つまらなく面倒である。
5回読まねばならないところを2回くらいでトンズラし、適当にチェックする親も多いでしょう。
実はうちもそうでしたが、ズルしたところで国語の成績には影響ありませんでした。
結論を言いますと「音読と国語力」は「読書と国語力」以上に即効性はありません。
音読を繰り返すことで、圧倒的に「国語の成績が上がる」のは一部の生徒のみと思われます。つまり、一部の生徒は確かに上がるってわけですが。
それ以外の子どもは、5回のところを2回でトンズラしても短中期的な影響はなし。
ただし。
5回が日に10回、20回、30回になったとしたら話は別。しつような音読は国語の成績どころの話ではなく生涯使える文章力の獲得へと子を導いてくれることでしょう。
というわけで、今回は中学受験はしないだろうけど国語力をつけたい、文章力をつけさせたい親御さんにも役立つ内容になるかと思います。
既にスラスラ組なら音読で成績は上がらない
音読は脳を活性化します。
勉強は書くばかりでなく五感使いが効率的です。ややこしい用語は暗唱するに限りますし、難しい文章も「音読し、耳から聴くこと」で頭に入りやすくなるはず。
中学受験などで国語の入試問題がスコブル解けない時にも本文の音読はよい勉強法になります。読み飛ばしを避ける効果もありますし。
※↓以下の国語の章でも触れています。
直接的な効果があるのはね。
教科書の音読で成績が上がるのは「国語の教科書を読めない子」たちです。
要は漢字が読めなかったり、文節を無視しおかしなところで区切ってしまうとか、200字の文章を読むにも、こちらの間が持たなくなるほど時間が掛かる子たちです。
「鶏が先か、卵が先か」問題になりますが、このレベルで国語の成績がいい子はまずいないはず。国語がそこそこ出来る子は初見の文章を読ませたとしても「ボロボロ」状態にはならないのです。
というわけで。
読めない子どもがスラスラ目指して音読を繰り返せば、成績は間違いなく上昇することでしょう。苦手克服法としては、かなり楽な部類と思われます。
なお、親が聞くのを面倒がるのはご法度ですよ。間が持たなくても真剣に耳を傾けることです。音読用のテキストが一冊あってもいいと思います。個人的には音読といえば斉藤孝のイメージ。扱っている文章もいいですしね。
「ごんぎつね」あり「走れメロス」あり「平家物語」あり。「速音読」というコンセプトは小学生に続けやすそうですね。
また、中学受験用なら以下の本に音読トレーニングが載っています。
受験ど真ん中の国語本ですが、苦手な子に「1分間400字音読トレーニング」は参考になるはず。ここから始め、段階的に国語を得意にさせていく構成ですね。
教科書を普通にスラスラ読める子たちですね。
その子たちがさらなるスラスラを目指し、音読を繰り返すのははっきりいって時間のムダです。
気分転換には良いですが、それによって国語力が「さらにアップする」現象は期待できません。田代式のその先の項目を読むか、次のような手段で成績アップを狙いましょうね。
あなたが中学受験組ならば、音読についてのメッセージはこの辺で終わりです。
ただし!
文章を書ける大人になって欲しい、そう願う場合は音読は最強のツールになります。
『ごんぎつね』を毎日1時間音読した小学生、数年後の成果は?
この先は恥ずかしながら、自分ごとになりましょう。私は小学時代、朗読女王でした。
朗読に関しては他の追随を許さない、おそらく校内一くらいに上手かったはず。団塊ジュニアの世代ですから小学校の生徒数は1000人くらいいたと思いますよ。
何故、他の追随を許さない朗読女王になり得たか?
小5の頃、毎日20回くらい教科書の音読をしていたからです。
『ごんぎつね』とか『モチモチの木』とかね。他はまったく思い出せませんが、それなりの長さのあるものを頭からお尻まで20回繰り返す。抑揚をつけたり、芝居風にしてみたり、1時間くらい音読していた日もありました。
ズバリ、他のことは全て苦手だったからです。唯一得意とするものが朗読で、唯一誉められるものが朗読でした。
そのため、朗読女王の座は誰にも奪われたくありませんでした。継続期間は、小5の途中から小6のある時期まで一年間くらいでしたでしょうか。
が。中学生となった朗読女王を待ち受けていたのは思春期の羞恥です。国語の授業に平幹二朗めいた朗読者は不似合いです。
うますぎる朗読者は恥ずかしい。続けていたら非モテまっしぐらです。
というわけで、女王のポジションをあっさりと捨て、棒読み朗読者となりました。
以降、子育ての初期段階まで朗読とは無縁の生活を送りましたよ。
と思われても仕方ありませんが、音読はその後の人生で多いに役立ったわけですよ。
小学生時代、朗読以外は国語の成績すら精彩を欠いていた自分ながら、朗読を捨てた中高時代も国語の成績で困ることはありませんでした。これは、長期的な「読書の成果」であり「音読の成果」かと。
中学受験者には遠回りに過ぎると、言っただけですよ。音読で国語脳を開花したいなら1日3回や5回どころではなく、相応の音読シャワーが必要なのです。
といって、中学受験生が音読毎日30分、1時間。これはありえません。他の追随を許さない朗読者はあきらめて、算数の問題でも解いていなさい!
私の出身地は札幌で未だ公立優位の地です。中学受験するものなど当時はゼロに等しく。
というわけで、「偏差値60に合格する中受ブログ」の主旨からはズレますが、この辺りは「中学受験は選択せず、長期的なスパンで教育を考えたい」あるいは「私立には行くつもりだが、無理せず行ける学校に行く」層向けの情報となりましょう。
小学生時の音読で文章のプロに
小5で音読20回効果には続きがあります。私は長いこと、出版やら編集やら、要するに20年以上文章に携わる仕事をしています。
というわけで、以降、私は『文章が得意』設定でお話しますよ。いいですか?
多分に、言いたいこともあるでしょう。このブログの文章ときや、まどろこしいやら、ところどころ文法の乱れがあるやら。しばらく経って読み返す度にゲンナリさせられます。
しかし、国語力の高いあなたがそれを口にすることはないはずです。この場の空気を読んでくれることでしょうから。
さて、なぜ、わたくしは文章が得意になったのか?
小学時代の音読シャワーから数年、十数年、数十年。
気が付けば、文章を書く時、頭の中でリズムが流れるようになっていたのです。
音読のリズムです。そのリズムが「こっちの語尾には“よ”ではなく”ね”を入れろ!」「長い文章の後は短文でしめる!」「ここはカタカナでなくひらがなで!」など事細かに指示してくるわけです。
頭を使って文章を書くというよりも、もっと音楽的、もっと身体的な感覚です。
音読は精読につながる、と言った人がおりましたが、実感から言えば音読を繰り返すと最後には個々の意味などわからなくなります。
滑らかに読めば読むほどに言葉はただの音と化す。そこに意味はなく、残るのはただのリズムです。
新美南吉の『ごんぎつね』のリズムや、教科書にある名作の数々、書き手たちの言葉のリズムが頭の中にずっと、ずっと残っているような感じ。
空気を読んで、とどまったわけですか? 国語力が向上しましたね。
実際には新美南吉は頭にいません。いるわけがないでしょう。いるとすれば自分の声です。音読する自分の声が頭の中に残存している感じなのです。
作家でもない人間がそれっぽく解説するのは、なんとまぁ、恥ずかしいことです。平幹二朗調の音読並みに恥ずかしいわけですがね。
ただ、似たような話はゴロゴロ転がっているわけです。
先日、子どもの頃にそろばんを習っていた方と話しましてね。彼女曰く、大人になってなお、頭の中にそろばんが消えないといいます。計算の際、「脳がそろばんの玉を弾く」といいます。
それと同じ感覚のような。
子どもの頃に徹底したことが“一生もの”になるのは珍しくないのかもしれません。一定期間しつように攻め続けたものは身体感覚としてきっと残るのではないかと。
自分の文章力は小5の時の「やりすぎにも程がある」音読の賜物のような気がするわけです。